おばあちゃんの教訓 3

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行きたくもない高専に無理やりぶっ込まれて、というと、
これまた高専でも「行きたくても行けない人がいるのに。」という発言が出てくると思います。

実際に高専の教官や教授も
「やる気のないお前なんかが入ったせいで入りたかったやる気のある奴が1人落ちたんだぞ。」
と言われました。

あと、
中学生の時に仲良くしていたバンド仲間の子が
H高を受験して、一番最後の順位で合格したのだそうです。
同じ中学の子達に、
「お前あいつ(私のこと)がH高受験を辞退したから合格できたんだぞ。あいつに感謝しろよな。」
と言われていたのだそうです。

「お前のせいで1人落ちて1人の人生を台無しにしたんだぞ。」も
「お前のおかげで合格できた。人生ひらけた。」も
当時の私の心には響きませんでした。

そんな中、死んだ魚のような目をしながら毎日を生きていました。

高専4年生になった時には青田刈りと言って、企業から求人の何かしらが頻繁に行われるのが当時の慣例でした。

4年生の夏休みにインターンシップと言って研修に行ったら、ほぼそこの会社に就職が決まるというシステムでした。

私もインターンシップのオファーがありました。
ソニーマグネプロダクツという会社にインターンに行ってみないか?と言われました。

ソニーってビッグネームじゃん。
とは思いましたが、
正直な気持ちは嫌で嫌で仕方がなくて泣きました。
結局、自分の意思でソニーのインターンシップを断りました。

先生の顔に泥を塗りました。


そんな日々の中でお勉強は全然しないのにたま〜にすごく良い点数を取ってしまうみたいなことはありました。たま〜に。

そうしたら
私に対して「お前さっさと辞めろよ。」と言って来ていた先生が
「お前やっぱりやればできるんだな!見直したぞ!今回のテストではお前が最高得点だ!」みたいな言葉をかけてくれたりしていたのですが、
私の心はもうすでに死んでいたので、
嬉しいという気持ちは湧いてくることはありませんでした。


そんな泥のような気分を味わいながら霊障と戦う日々を送っていました。

おばあちゃんに会った時だけ、
本当に人として扱われているような気がしてすごく嬉しかったのを覚えています。

なので、どんなに厳しいことを言われてもおばあちゃんのことを悪く思うことはありませんでした。
その奥に愛情があったのをちゃんと認識していたのだと思います。

そんな日々の中、
行者のおばあちゃんに「教室掃除をしろ。」「トイレ掃除をしろ。」と言われて
仕方なしにやり始めて継続していました。嫌でしたが。


前回の記事に書いたうんこ事件の時に、掃除道具を洗って後片付けをしていた時に、
実験助手の職員の女性が女子トイレに入って来ました。
そして私がトイレ掃除をしていたこと、そしてあのでっかいうんこを私が1人で片付けたことを理解したみたいでした。

化学科棟のトイレだったので、
その職員の女性に
「あなた化学科?何年生?」と聞かれました。
なので、ビビりながらも「4年です。」とだけ答えました。

「ありがとうね!あんなにおっきいうんこが放置してあって私もびっくりして何にもできなかったのよ。掃除のおばさんは週に何回かしか来てくれないし。偉いわね!ありがとうね!」

と何度も何度もお礼を言われました。

そこでツッコミどころを述べるなら、
大人であるお前がやれよっていう言葉が出てくる可能性があると思います。

でも、多分誰もが非常に躊躇するぐらいの、でっかくて緩めのうんこがドカン!と便器の脇の床に鎮座していたんです。

そりゃあ、躊躇するよね・・・
私もおばあちゃんと不動明王様に言われてなかったら絶対にやらないと思うよ・・・。
と当時の私は思いました。

いや、今の私でも思うと思います。
逆に
「自分のやった不始末を自分で回収できないなんてダメだよ!」
と思うぐらいのレベルです。
いわゆる、「自分のケツも拭けない」っていうやつです。

せめて自分がやってしまったことには自分で責任を持ちましょうね、という
社会人(?)仕事人(?)として一人前であると認識している人なら
できて当然なことですね。


さてさて、そんなふうに、週一回のトイレ掃除と、週2〜3回の教室掃除を
続けていました。

バイト帰りに教室を掃除していたある日、突然教室のドアが開いて「誰だ!」という大きな声が聞こえて来ました。

遅くに教室の電気がついているのを見て不審に思ったのでしょうね。

私はビビって縮こまりました。
入って来たのは担任の先生でした。

私が箒を持ってビビって縮こまっている様子を見て担任は
「お前、教室の掃除をしていたのか?」と言いました。

なので私は「はい・・・。」と答えました。

「なんでこんな時間に?」と聞かれたので
「誰も掃除しないので・・・。家が学校から近いから、バイトが終わった後で寄っていました。ごめんなさい。」と答えました。

そうしたら担任は
「ひょっとして化学科の女子トイレを掃除していたのもお前か?」と言いました。

「あらっ!チクられてた!」と思いましたが「はい・・・。バイトのない日だけですが・・・。」
と答えました。

「最近教室が綺麗になって来たなあと思っていたんだよ。みんなの意識が上がって来たのかと思っていた。お前がやってくれていたのか。お前ってそういうやつだったのか。俺はお前のことをひどく誤解していたようだ。」
と言って担任は泣き出しました。

私は内心は
「いや、おばあちゃんに与えられたダンジョンをこなしていただけなんですけど。なんなら嫌々なんですけど・・・。」と思いました。

「てか、泣くほどのことか?」とも思いました。

それは秋のある日、高専祭(高専の学校祭)の少し前のことでした。

それからも私はことあるごとにおばあちゃんに会いに行き、大福を食べたりおばあちゃんの話を聞いたり、疑問をぶつけて禅問答みたいなことをしたり、
バイトに行ったり学校をサボったり保健室登校をしたり貧血でぶっ倒れたりしていました。
(当時から貧血)

年に一度、高専祭の日に、担任と親の、二者面談があります。
私たち学生は、自分のクラスの出し物と、所属する部活の出し物であっちこっち大忙しな上に
当時男子が95%ぐらいだった高専では、外部の女子に触れ合える貴重な機会でしたので、
お祭り自体がものすごく気合の入ったものでした。


お祭りは遅くまで続き、家に帰るのも遅くなりました。
いろんな出店で色々食べていたので、私も夕食を食べれるような状況ではありませんでした。


数日後、
母親に
「こないだの二者面談でひどく恥をかかされた。」的なことを言われました。

まあ、どうせ「特別推薦で入ったのに全然勉強しないからさっさと辞めさせろ。」と言われたんだろう。はいはい。わかっていますよ〜。
ぐらいに思って受け流そうと思っていました。

そうしたら担任のM先生が
「あいつ本当は他にやりたいことがあったのではないでしょうか?」と言ってきた、
というのです。

あの日泣いていた担任がそこまで察してくれていたのか、と思って私は感激しました。
てか、実際にその通りだしな。とも思いました。

担任があまりにも強く食い下がるので、母親は今までの経緯
(家の都合で進学先を無理やり変えさせたこと)を白状したみたいです。

そうしたら担任は
「本人の望む道に進ませてあげてほしい。」
と言って泣きながら私の母親に頭を下げたのだそうです。

異口同音ですね。
中学生の時にも担任に
「行きたくてもいけない子がたくさんいるのに。行ける学力があるのに行かせてあげないのは何故か?」
「本人がやりたいことがあるなら何故それをやらせてあげないのか?」
と言われて
「ウチの問題です!他人に口出ししてもらいたくない!」
と一回は突っぱねたけど、
その先の高専の教授にまで
「特別推薦で入って来てこんなにやる気がない子は初めてです。
あの子は時々高得点を取るくらい、やればできる子なんです。
お子さんがほぼ保健室登校だってこと親御さんはご存知ですか?
でも学校が終わったらトイレ掃除をしたり教室掃除をしたりしている。
その事実をご存知ですか?他にやりたいことがある子を高専にねじ込んだところで、
全く意味がないことですよ。あの子が入ったことで他の誰かが落ちることになった。」
と言われたみたいです。
異口同音とはこのことですね。

かなり堪えたみたいです。
親のプライドが傷ついたという意味で。


親の口から
「高専、辞めてもいいよ。やりたい事やっていいよ。」
という言葉が出ました。

正直私は「聞き間違いかな?」と思いました。
でも、進路変更していい、とのことでした。

そこで問題になるのが高専の普通科目の単位数です。

当時の共通一次を受けるにはあまりにも一般教養が足りなさすぎる。
てことは一年浪人して勉強し直して大学受験用の勉強をする。
当時の私は4年生、19歳でしたから、そこから一回浪人しても医大受験は20歳
そこから学校を卒業するまで、留年しなくても26歳。
そこからインターン生活が5年ぐらいあります。
いっぱしに自立できるまで31歳。

そこまで親にお金を出させるのは嫌だなあと思いました。
これは当時の私の価値観なのですが、
私の親は今で言うところのモラハラ体質だったので、
「金を出してやっているのだから言うとおりにしろ。」と言うことを平気で言う人でした。

なので、
医者になるという夢は泣く泣く諦めました。

そして、2番目の夢だった「デザイン」の道に進むことにしました。

本当は東京に出てアパレルの学校に行きたかったのですが、
「東京はダメだ。金がかかるから。地元にしろ。」
と言われました。

でも北海道は旭川という田舎町に、デザインを教えてくれる学校なんかあるわけもなく、
仕方なしに札幌のデザイン学校に通わせてもらえるようになりました。

あの
ネグレクトとかモラハラとかスケープゴートとか、
そういう酷い環境から抜け出すことができました。
そして今の私に続いています。


おばあちゃんと不動明王様は
おそらくどうしたら私がその当時の私のひどく絶望的な状況から
抜け出させてあげることができるのだろうか?と考えてくれていたのではないかな?と思います。

その結果、
「陰徳を積みなさい」
「人が嫌がることをやれる人間になりなさい。」
そして
「神様に愛される人間になりなさい。」
と私に強要(笑)することで私を救ってくれたのではないかなあ?と思います。

その概念が、継続することで身について自然なことになった時に、
何かしらの転機が訪れたのではないかな?と思っています。

おばあちゃんと不動明王様には感謝しかありません。




ここで言います。
欲しい結果のために行動を起こすのは「下心」です。
「ハッピーになりたい。」とか「ラッキーになりたい。」とか
それを「引き寄せる」ために何かしらの行動を起こすのは、下心から発する行動ですので、
「功績」としてはカウントされません。



当時の私は、
「やれ。」と言われて
「なんかよくわからんけど言われたからやるしかないか。」と文句を言いながらもやり、
それを継続しました。
わけわからんまんま。

その結果ある時突然物事が動きました。

おばあちゃんは決してインチキ霊能者でも、
悪徳宗教法人でもないと、もう30年もたった今、胸を張って断言できます。

何故なら
私がおばあちゃんの元を離れて一人暮らしをさせてもらって札幌の専門学校に通うようになってすぐに、
おばあちゃんは不動明王様の御用をするのを辞めてしまいました。

もう会えなくなってしまいました。

今の私は思います。
多分おばあちゃんは「あの子はもう大丈夫。」って思ってくれたんじゃないかなあ?と。
そして、もしそうだったとしたら、
私はおばあちゃんからもらったたくさんの教訓を
たくさんの人に伝えていく必要があるのかもしれないぞ?と。

最近はラッキーやハッピーを引き寄せるためのメソッドを売りますよ〜なんていう業者がたくさんいて、
そのメソッドがかなり高額で、
メソッド主がすごくたくさんお金を稼いでいるみたいで、
「私のようにお金持ちになりたければこのメソッドを購入しなさい。」的な
なんかそういうシステムになっている場合が多いみたいで、
そういうのを見るたびに、違和感を禁じ得ないことがあって、
すっごく心配になってしまうこともあります。

まあ、こんなことを発言する私は、メソッドを販売する人たちからはすっごく邪魔な存在なのではないかなあとは思うのですが。

「鶏が先か、卵が先か」論は結局結論が出ない話ですしね。


まだまだおばあちゃんからもらった教訓はたくさんたくさんあります。
おばあちゃんにもらった保護もたくさんたくさんありますので、
これからも書いていきますね。

おっかない話も、山のようにありますので、
思い出したらちょいちょいぶっ込んでいこうと思いますよ。

まずはおばあちゃんが不動明王様の御用をすることになった時の話など。


最後まで読んでくださってありがとうございました。

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